夏目漱石の小説「彼岸過迄」に、以下のくだりがあった。
「僕はその傍に伏せてある鉄網の鳥籠らしいものを眺めて、その恰好がちょうど仏手柑のごとく不規則に歪んでいるのに一種滑稽な思いをした。」(須永の話:二十二)
「仏手柑」という言葉は筆者には初見だった。主として観賞用に用いられる柑橘類で、果肉がなく、果皮の下はアルベドだけだと。仏の手というより、クトゥルフ神話の邪神の手ではないかと思ったが、そう感じる人は多いようだ。指というより触手。しかも一本一本が不規則に曲がっている。
金網の鳥籠らしいものは、漁具のようだが須永には、それが何に使う道具なのかわからない。人工物なのに幾何学的な形を失い、生物のようにぐにゃぐにゃ変形しているものを一発で表現するための「仏手柑」だ。
この直後、一行は船に乗って蛸漁をする。ところが誰も漁についてよく知らない。「漁師が妙なことをしている」と感じて書いたというより、意図的に都会人には何をしているのかさっぱりわからない漁村の技術として描いているようだ。
漱石の頭には、漢籍、漢詩、禅、仏教、日本美術、英文学、西洋美術などから得た巨大な「形とことばのデータベース」がある。一方、漁村の生活技術については門外漢。だから、「これは何に使う漁具なのか」はわからないのに、「この形は仏手柑に似ている」はわかる。
知識人が現実の生活世界に出ていくと、知識は豊富なのに目の前で何が行われているのかわからないという、漱石が繰り返し描いた可笑しさの一例である。
そして蛸。筆者は以前このブログで、認知科学とSF小説の書籍と共に蛸の知性を紹介した。漱石は蛸を「ぐにゃぐにゃした怪物」と記したが、現代人は「高度な知的生物」と見る。クトゥルフ的なものとして「仏手柑」と「蛸」が並べてあっても、その類似性になかなか気づくことができないのだ。

