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愚者の一群「Narrenの方舟1〜忘れる者〜」

高校時代の同期生が役者として蘇っている。「昭和三十二郎」という名で、脚本家岡本慎一郎とともに、表現者集団「愚者の一群」を立ち上げたのだ。その第1回公演「なほなほさるや」は2025年8月の参宮橋で行われ、このブログとは別のところに印象記を書いた。今回は第2回公演となり、2026年5月15日から17日の日程で、中野のスタジオあくとれが会場だった。

中野に行くのは久しぶりだった。南口の再開発として2024年に竣工したナカノサウステラのツインタワーにより、街の見通しがすっかり悪くなっていた。スタジオあくとれはこのビルの壁の向こう側に位置するのだ。

駅北側の中野サンプラザを中心とした大規模再開発は白紙化されている。「再開発の方向転換を迫られている街」「今までの再開発モデルが通用しなくなったことを最も露呈した街」に中野は該当する。

もともと、新宿ほど超高層ではなく、個店文化やサブカル密度が高い「中層都市」だったので、高層化は中野らしさと相容れないのだ。今後、文化施設重視の中規模複合開発の積み重ねの方へ向かっていってほしい。ブロードウェイ、小劇場、雑居ビル、個人商店、オタク文化などの非効率な集積が中野のウリなのだから。

スタジオあくとれは中野駅南口から徒歩4分、座席数50の小劇場だ。今回の舞台は現代日本であり、ミステリーのカテゴリーに入る。紹介にどうしても内容に触れなくてはならないところがあることは、堪忍して欲しい。

プロローグが、狂言回しの男(昭和三十二郎)の独白から始まる。「記憶障害」がテーマであることが示唆される。独白から客席との掛け合いに入る。アドリブがかなり入っているはずだが、スムーズに台詞が出てきた。ブランクは感じさせなかった。

心因性の解離性健忘は、強い精神的ストレスやトラウマが原因で、自分にとって辛い記憶や特定の出来事を無意識に忘れてしまう状態だ。筆者も昔深い悲しみによる解離性健忘の経験がある。人一人の存在を全く忘れてしまうほどの強さではなかったが。健忘に気づいてから、記憶のサルベージは大体できたと思うが時間がかかった。

入院して難度の高い内視鏡手術を受けた時に、麻酔薬による前行性健忘を覚醒後に起こしたこともある。本当に綺麗さっぱり記憶が抜け落ちている。色々な健忘を経験しているので、脚本の内容は起こりうることとして、すんなり納得できた。

認識できなかったのは、砲丸投げの球だ。映像に砲丸が映っていると言われても、視線をどこに送ればいいのかわからなかった。グライド投法と回転投法も、現実に存在する2大潮流であることを知らなかった。ずいぶんマイナーなネタがキーワードになっている。20メートルが目標となる大台であることは覚えておこう。

エピローグは狂言回しの男の独白に戻る。

ナカノサウステラという壁

森田童子「夜行」

森田童子は1952年生まれの女性シンガーソングライターで、1975年にメジャーデビュー、1983年に音楽活動停止。その後は1度も人前に姿を見せていない。重度の人見知りで、カーリーヘアとサングラス、男物の服装で身を守り素顔を晒すことはなかった。

活動期間が筆者の学生時代とだいたい一致している。当時もその楽曲の暗さが揶揄されていた。「鬱な時に聴く曲。自分よりもっと不幸な人がいるんだとわかって元気になる」などと言われていた。

筆者は凄いファンであるということは全然なかったが、伝説となった1980年11月の黒テントコンサートに行っていることを思い出した。テントはアングラ演劇四天王の1つである「劇団黒テント」が貸し出して、池袋三越裏に設営された。

医学部卒業を控えて、医師国家試験対策の勉強で忙しかった頃だと思うが、鉄門のクラスメイトに誘われて行ったのだ。誘ってくれた友人たちは、森田童子は知らなくて、劇団黒テントの公演だと思っていたと後で言っていた。なぜ「紅テント」ではなく「黒テント」に行きたがったのかは不明。

鉄門:東京大学医学部医学科のこと。

コンサート時、森田童子は28歳、筆者より上の世代、学生紛争がリアルな世代に属す。コンサート実現までを追ったドキュメンタリー番組が東京12チャンネルで放送された。現在YouTubeで見ることができる。観客席に筆者が映っているなんてことはなかった。

1993年1月、テレビドラマ「高校教師」の主題歌として、「ぼくたちの失敗」が使われ大ヒットとなった。昔を知らない若い世代を含めて新たに多くのファンが生まれた。現役当時よりこの時の盛り上がりの方が強かったが、マスコミの取材には全く応じなかった。

「いちご白書」、監督:スチュアート・ハグマン、原作:ジェームズ・クネン

いつもながら、古い昔の話をする。これは、コロンビア大学の学生闘争を描いた1970年公開の映画だ。バフィ・セント=メリーの唄う主題歌「サークル・ゲーム」と共に、映画は筆者にとって大切な思い出となっている。

荒井由美が1975年にバンバンに書いたヒット曲「『いちご白書』をもう一度」で、いつか君と行ったやつだ。

筆者は中学生だった。1970年の公開時に渋谷で観ている。混んでいた記憶がある。同年代の友人がガラガラだったと回想していたが、どちらの記憶も正しいということだ。つまり渋谷・新宿などの「若者の街」は大混雑した。地方や一般の映画館は苦戦だったと。

自分と同じ感覚を持つものは少数派なのか不安になったが、決して少数派ではない、ただし「ある特定の世代・感性を持った人たちにとっての、熱狂的な共通記憶」であると評された。ユーミン、バンバンの名曲が大ヒットしたことが、当時の日本中の若者が激しく共感したことを証明している。

筆者の感動を振り返ってみる。1970年の頃の日本は貧しかった。高度経済成長の真っ只中とはいえ、人々の生活は物質的にも精神的にも、今のような余裕はなかった。「いちご白書」の世界はアメリカの圧倒的な裕福さと自由に満ち溢れていた。主人公が学生運動に参加した後の彼女とのエピソードも、気楽で重苦しさのないものだった。その豊かさに憧れた。

当時の日本の若者から見れば、彼らの学生運動は「命がけの階級闘争」ではなく、「満ち足りた自由と豊かさの土台の上にある、精神的な権利の主張」という、極めて贅沢で知的なものに映ったはずだと。

筆者の感じた「その豊かさに憧れた」という感覚は、少数派のものではない。むしろ、1970年代の日本の若者カルチャーを形作った最大の原動力だった。